痛む全身を地面に投げ出し、眩しいくらいに輝く月に向かって拳を突き上げる。
吹っ飛ばされた時に切ったんだろう。口の中で血が滲んでいる。これが敗北の味というやつか。
手習いとはいえ、霊長類最強の男に挑むなんて我ながら無謀だった。

「こんなの見たの初めてかも、満天の星空ってやつ?」

現代であれば街灯の少ない田舎までわざわざ見に行くような夜空が、今では毎日のように見られるというのに。
つまり、私が意識して空を見上げてこなかっただけなのだ。

「空がこんなに広いなんて知らなかったな」
「……旧世界では何もかもが誰かのものだった。土地も、海も、空までもね」

敗者のひとり言の相手をするなんて、司は変わった男だ。

「戻ったかと思った」
「うん。そのつもりだった」
「見えないんだけど、空」

司が私の顔を覗き込むものだから、視界が司でいっぱいになってしまう。
それにしても、相当なデカさだ。うっかり頭を踏まれでもしたら怪我じゃ済まないだろう。

「この世界は誰のものでもない」

どうやら話し続けるらしい。
勝者の演説を転がったまま聞く羽目になるとは。

「俺は……この今こそが、世界の在るべき姿だと思ってる」

誰にも支配されない、誰かが誰かに搾取されない世界。
それが司の求める理想郷。
彼の理想は分からないでもない。けど、分からないこともある。

「そりゃ今はそうかもだけど」
「……どういう意味だい?」

司がこの大地で一番強い生物であることは明確だ。さっき嫌と言うほど思い知らされた。
じゃあその先は?司はいつまで最強でいられる?
ある日突然人類は石になった。
当時のまま何千年も生き長らえてしまった私たちも、これからは確実に年老いていく。
司は、君自身が嫌悪する権力者とは違う?そうならずにいられる?
変わらずにはいられない。それは生物の定めのようなものである。
司のビジョンだけが石になったままだ。彼の思い描く世界には、未来が欠落している。
なんて口が裂けても言えないが。

「今日負けた私が明日から死ぬほど鍛えて、司より強くなっちゃうかもってこと」
「うん……それはないかな」

憎たらしいほど清々しく否定された。
負け惜しみではないが、彼の動きに全くついてこられなかったかというと、そうでもない。
分かったところで意味がないのだ。私と彼には、そのくらい歴然とした差があった。
悔しさすらない。
しかし最強の名を欲しいままにしておきながら地盤の緩そうな理想を掲げている彼を見ると、どうしても思ってしまうのだ。

あーあ、なんでもいいから泣かないかなこの人。

そのお綺麗な顔に涙ときたら、相当絵になるに違いない。
私が負かして泣かせたいなんて、さっき彼に負けた人間が簡単に言えることじゃないけど、人類最強の男が流す涙を一生のうちに一度は見てみたい。

「タマネギでもあればな」
「…………ん?」
「なんでもない!さ、そろそろ行こう」

目の前の大男が泣きながらタマネギを刻んでる姿を想像したら立ち上がる元気が出てきた。
足はまだ痛むけど、歩ければまぁなんとかなるだろう。

「名前」
「なに」
「吹き飛ばすつもりはなかった」

つまりあれか。彼としては軽くいなしつつ死に急ぐなと諭して終わるつもりだったと。

「ん?いやでもそれって」
「戦闘における君の勘は……うん、悪くないよ」
「じゃあやっぱりもっと頑張れば一発くらい……」
「それはないかな」
「二回も言うなー!」

負け犬のままじゃ終われない。
獅子王司の泣き顔を拝む。絶対に。
この日から私は彼を、彼の生き様をじっくり観察してやろうと心に決めたのだった。



2020.7.12 負け犬の執着


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